今日は定例の建築会議でした。実は、この建築会議、設計監理をお任せしている、大岩剛一先生のお弟子さんで、水野さんと粕川さんという素敵なお二人が会議をすすめてくれています。親方々と丁々発止の姿をみていると頼もしく、聞思堂にかける情熱を感じています。いつもありがとうございます。
会議のじゃまをしてはいけない・・・。専門的な話だからと・・・。つい席をはずしてしまうのですが、そういうところが、権威を勝手に作りだしているのだと、昨日のブログを書きながら思いました。ちょっと寂しかった自分の気持ちを大事にして、それをコミュニケーションの中で、表現していくことが大切だと思います。
「権威にならない。」とは同時に「権威を創りださない」ということ一つになっているのです。
ブログを書くことで、改めて、聞思堂の建築が様々なご縁の中で成り立っていることに気づかされました。やはり、思いを表現して言葉にすることは大切なことですね。
実は、私は住職になったばかりの頃、コミュニケーション不全の自分自身に気づかされた出会いがありました。教育カウンセラーの富田富士也先生との出会いでした。コミュニケーション不全とは、気持ちを聴く事ができない、せめいぎあって、おりあって、お互い様のコミュニケーションをとることができない私の姿でした。
富田富士也先生 http://www.kodomoforum.com/
2008年のブログhttp://zenryouji.blogspot.com/2008/02/blog-post_07.html
で先生を紹介しているのでよろしかったらその頃の文章を読んでみてください。
先生との出会いで、グループカウンセリングやグループエンカウンターの実践に出会い、人権教育の観点からも、コミュニケーションの問題に気付かせいただました。僕にとっては本当に深い学びでした。これからも学びを続けていきたいと思っています。
富田先生は、カウンセリングの一般化、大衆化を大切にされていました。専門家の技術論ではなく、カウンセリングマインドを誰もが持つこと、それが、現代社会におけるコミュニケーション不全を超えていくキーワードなのです。権威を創りだすのではななく、誰もが気持ちを聴きあう事のできる社会のありかた、そこには、資格や学歴ではなく、誰もが町のカウンセラーとして、生活レベルで助けあい支えあう事が出来るのだと思います。
「誰でも救い」という願いがここにも生きています。
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富田富士也先生の学びから、コミュニケーションをとることのできる空間の大切さを思います。
聞思堂の円形部分には、コミュニケーションを創っていきたいという住職の願いを込めています。向き合ってしまうと、逃げる事が出来なくなってしまいませんか。コミュニケーションもどこかで、自分を大事にできる空間が必要だと思うのです。円は、抜き差しならない関係を和らげてくれます。孤独なようで誰かとつながっている。つながりのなかにある生命の象徴という面もあり、またコミュニケーションから何かが生まれてくるという願いも込められています。
空間のあり方というのは、コミュニケーションにとってとても大切な意味を持っているのです。聞思堂には、建設の終盤に、石の縁側ができます。先日書いた穴太積みのお話です。あの空間は、コミュニケーションの多様性を受け止めていく空間として大岩先生に教えていただきました。
効率性からいえば円形は無駄ですね。効率的にならないのが実は、コミュニケーションだったのではないでしょうか。手間暇かけることで、見えてくるものがある。
縁側もコミュニケーションの場だったのです。今は、すぐに玄関に入らなくてはいけない建物が多くなりました。緩やかに間合いを取りながら、関係を紡いでいくことの重要性を、昔の建物はきちっと表現していたのです。
それは、一般家庭でのコミュニケーションの多様性を示しています。すなわち、社会におけるコミュニケーションの多様性でありましょう。だからこそ、いろいろな世代を受け止めていくことができたのだと思います。また、いろいろな生活文化を創りだしていけたのだと思います。芸術も専門家の持ち物ではなく、誰もがアーティストなのだと思います。縁側や円になって人が集まることによって、多様なコミュニケーションが生まれ、多様なカルチャーが生まれていった。
現代社会が、効率性や高速化を求めていくことによって、コミュニケーションの多様性を見失ってしまっているとしたら、「懐かしい未来」として、我々が学ぶべき先人が残してくれた生活文化は沢山あるのだと思います。生活そのものに息づく多様性こそ大切にしたいと思うのです。
権威にならない具体的なお寺のあり方として、街の縁側としての役割を担うことが聞思堂にこめた願いの一つです。
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思いをつらつら書いているので読みずらいと思います。ごめんなさい
繰り返しも多いと思うのですが、日記ですからご容赦ください。
今晩も付き合ってくださってありがとうございました。明日は、デイサービスへの思いを含めて書いてみたいと思います。
住職 合掌
会議のじゃまをしてはいけない・・・。専門的な話だからと・・・。つい席をはずしてしまうのですが、そういうところが、権威を勝手に作りだしているのだと、昨日のブログを書きながら思いました。ちょっと寂しかった自分の気持ちを大事にして、それをコミュニケーションの中で、表現していくことが大切だと思います。
「権威にならない。」とは同時に「権威を創りださない」ということ一つになっているのです。
ブログを書くことで、改めて、聞思堂の建築が様々なご縁の中で成り立っていることに気づかされました。やはり、思いを表現して言葉にすることは大切なことですね。
実は、私は住職になったばかりの頃、コミュニケーション不全の自分自身に気づかされた出会いがありました。教育カウンセラーの富田富士也先生との出会いでした。コミュニケーション不全とは、気持ちを聴く事ができない、せめいぎあって、おりあって、お互い様のコミュニケーションをとることができない私の姿でした。
富田富士也先生 http://www.kodomoforum.com/
2008年のブログhttp://zenryouji.blogspot.com/2008/02/blog-post_07.html
で先生を紹介しているのでよろしかったらその頃の文章を読んでみてください。
先生との出会いで、グループカウンセリングやグループエンカウンターの実践に出会い、人権教育の観点からも、コミュニケーションの問題に気付かせいただました。僕にとっては本当に深い学びでした。これからも学びを続けていきたいと思っています。
富田先生は、カウンセリングの一般化、大衆化を大切にされていました。専門家の技術論ではなく、カウンセリングマインドを誰もが持つこと、それが、現代社会におけるコミュニケーション不全を超えていくキーワードなのです。権威を創りだすのではななく、誰もが気持ちを聴きあう事のできる社会のありかた、そこには、資格や学歴ではなく、誰もが町のカウンセラーとして、生活レベルで助けあい支えあう事が出来るのだと思います。
「誰でも救い」という願いがここにも生きています。
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富田富士也先生の学びから、コミュニケーションをとることのできる空間の大切さを思います。
聞思堂の円形部分には、コミュニケーションを創っていきたいという住職の願いを込めています。向き合ってしまうと、逃げる事が出来なくなってしまいませんか。コミュニケーションもどこかで、自分を大事にできる空間が必要だと思うのです。円は、抜き差しならない関係を和らげてくれます。孤独なようで誰かとつながっている。つながりのなかにある生命の象徴という面もあり、またコミュニケーションから何かが生まれてくるという願いも込められています。
空間のあり方というのは、コミュニケーションにとってとても大切な意味を持っているのです。聞思堂には、建設の終盤に、石の縁側ができます。先日書いた穴太積みのお話です。あの空間は、コミュニケーションの多様性を受け止めていく空間として大岩先生に教えていただきました。
効率性からいえば円形は無駄ですね。効率的にならないのが実は、コミュニケーションだったのではないでしょうか。手間暇かけることで、見えてくるものがある。
縁側もコミュニケーションの場だったのです。今は、すぐに玄関に入らなくてはいけない建物が多くなりました。緩やかに間合いを取りながら、関係を紡いでいくことの重要性を、昔の建物はきちっと表現していたのです。
それは、一般家庭でのコミュニケーションの多様性を示しています。すなわち、社会におけるコミュニケーションの多様性でありましょう。だからこそ、いろいろな世代を受け止めていくことができたのだと思います。また、いろいろな生活文化を創りだしていけたのだと思います。芸術も専門家の持ち物ではなく、誰もがアーティストなのだと思います。縁側や円になって人が集まることによって、多様なコミュニケーションが生まれ、多様なカルチャーが生まれていった。
現代社会が、効率性や高速化を求めていくことによって、コミュニケーションの多様性を見失ってしまっているとしたら、「懐かしい未来」として、我々が学ぶべき先人が残してくれた生活文化は沢山あるのだと思います。生活そのものに息づく多様性こそ大切にしたいと思うのです。
権威にならない具体的なお寺のあり方として、街の縁側としての役割を担うことが聞思堂にこめた願いの一つです。
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思いをつらつら書いているので読みずらいと思います。ごめんなさい
繰り返しも多いと思うのですが、日記ですからご容赦ください。
今晩も付き合ってくださってありがとうございました。明日は、デイサービスへの思いを含めて書いてみたいと思います。
住職 合掌