自分自身が本当に多くの出遇いに導かれて、今ここに、建築のという大きなご縁をいただいているのだと感じています。
願いを言葉にしながら、自分自身が学びをいただいています。読んでくださる方々にも、お付き合いいただき心から感謝申し上げます。
さて、ここからは、聞思堂への願いを、『スローライフ100のキーワード』(辻信一著 弘文堂発行)にある、言葉をヒントに考えてきたいと思います。いままで、書いてきた先生方との出遇いとともに辻先生との出遇いも私の人生において大きな出遇いでした。
自分自身の思考の枠組みを転換していくというのは、大変なことであると思います。
今まで、そうやって生きてきた自分が根底から揺るがされていく、今までの自分自身では、想像すらできなかった、大きな転換は、「出遇い」によってもたらされているのだと思います。
親鸞聖人のお言葉の中に
「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」
(ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。)
『顕浄土真実教行証文類』総序の文 (浄土真宗聖典 注釈版 4頁)
学生時代は、単なる文献との出会いという短絡な受け止めしかできませんでした。そうではなく、時代に流され、煩わしい悩みによって苦しむ私が、今ここに大きな転換をとげていく、存在そのものが転換されていく出遇い・・・それは、表面的で、直線的な時間と空間の理解をも超えて、今ここで遇うのだと思います。
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「言葉面にとらわれないで、言葉が運んでくれる思いや願いにこころを寄せていくとき絆は深まっていく。」とは、富田富士也先生から学ばせていただいた言葉です。こころを寄せていくという具体的な実践こそ、「聞く」ことだと思います。表面的な音を聞くという意味だけではありません。
聞く・・・ありのままに聞き、訊く・・・深めるために訊ね、そして、聴く・・・こころを聴く。
富田先生から学んだリスニングの基本です。単なるテクニックではなく、心を深め、価値観の大転回をもたらす出遇いを粗末にしない、実践そのものだと思います。
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「スロー」という言葉も私にとって、価値観の大きな転換でした。それは、生活の実際の場で、自分自身が問いかけられると同時に、今までの、学びがひろい視野をもって再び紡ぎなおされていく体験でもありました。
仏教学・真宗学を基礎としながら、カウンセリング・介護という実践的な学びを通し、はじめて、私の存在と環境は別物ではなく、今社会に起こっていることすべてが自分とつながりあっていることを学ぶ、最初の一歩を踏み出せたのだと思います。その大きな出遇いが辻先生との出遇いでありました。
立ち止まらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。
(長田弘 「立ちどまる」より)
私自身走り続けている感が、今もあります。だからこそ、こころに響く詩なのだと思います。聞く事を粗末にしない生活は、立ち止まる生活であると思うのです。それは、今を粗末にしない生活であり、自分自身の生き方を問い続けていく生活でもあると思います。
気付かなかったことに気づかされていく生活です。
消費文化の枠組みに逃げ込んで、しかたない、しかたないと生きていく中で、私たちは、自分自身をまゆで包む蚕のように、同じ価値観でがんじがらめになっていないでしょうか。
一人ひとりが人生の主人公であり、世界を担っている尊い存在なのです。どこかのスパーマンがすべてをいいように解決してくれるのではありません。
聞思堂は立ち止まることのできる場所で、ありたいと思っています。宮城県栗駒山の杉の香りから東日本大震災の記憶をとどめ、私たちの生活のあり方そのものが、フクシマと直結していることをこころに刻んでいく場所。
それは、強迫的に追い込まれていく世界ではありません。
立ち止まるからこそ、自分自身の今の生活のあり方を振り返り、具体的に心を紡ぎ、絆をふかめ現地とつながることができる。「今、ここで何ができるのだろうと」考えことができる。
何もないからこそ、「ある」ことを問いつづけていくことができる。その意味を聴く世界が恵まれる.
そういう空間でありたいと思っています。そして、みなさんと一緒に、新しい価値観を共有できる場所でありたいと思います。
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安心して立ち止まり、安心して何もしない事ができるその根源は、「慈悲」です。だからこそ、お寺は、阿弥陀様の大慈悲を中心に成り立っているです。「すべてのお寺は平和のためにある」その根源をささえるものこそ「慈悲」なのです。慈悲の本質を支えるものが、存在論としての智慧であり、物事を関係性の上に立って、有機的に、ホリスティックに考えていく世界観なのです。
今夜もお付き合いいただきありがとうございました。
明日もまた考えていきたいと思います。
住職 合掌
願いを言葉にしながら、自分自身が学びをいただいています。読んでくださる方々にも、お付き合いいただき心から感謝申し上げます。
さて、ここからは、聞思堂への願いを、『スローライフ100のキーワード』(辻信一著 弘文堂発行)にある、言葉をヒントに考えてきたいと思います。いままで、書いてきた先生方との出遇いとともに辻先生との出遇いも私の人生において大きな出遇いでした。
自分自身の思考の枠組みを転換していくというのは、大変なことであると思います。
今まで、そうやって生きてきた自分が根底から揺るがされていく、今までの自分自身では、想像すらできなかった、大きな転換は、「出遇い」によってもたらされているのだと思います。
親鸞聖人のお言葉の中に
「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」
(ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。)
『顕浄土真実教行証文類』総序の文 (浄土真宗聖典 注釈版 4頁)
学生時代は、単なる文献との出会いという短絡な受け止めしかできませんでした。そうではなく、時代に流され、煩わしい悩みによって苦しむ私が、今ここに大きな転換をとげていく、存在そのものが転換されていく出遇い・・・それは、表面的で、直線的な時間と空間の理解をも超えて、今ここで遇うのだと思います。
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「言葉面にとらわれないで、言葉が運んでくれる思いや願いにこころを寄せていくとき絆は深まっていく。」とは、富田富士也先生から学ばせていただいた言葉です。こころを寄せていくという具体的な実践こそ、「聞く」ことだと思います。表面的な音を聞くという意味だけではありません。
聞く・・・ありのままに聞き、訊く・・・深めるために訊ね、そして、聴く・・・こころを聴く。
富田先生から学んだリスニングの基本です。単なるテクニックではなく、心を深め、価値観の大転回をもたらす出遇いを粗末にしない、実践そのものだと思います。
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「スロー」という言葉も私にとって、価値観の大きな転換でした。それは、生活の実際の場で、自分自身が問いかけられると同時に、今までの、学びがひろい視野をもって再び紡ぎなおされていく体験でもありました。
仏教学・真宗学を基礎としながら、カウンセリング・介護という実践的な学びを通し、はじめて、私の存在と環境は別物ではなく、今社会に起こっていることすべてが自分とつながりあっていることを学ぶ、最初の一歩を踏み出せたのだと思います。その大きな出遇いが辻先生との出遇いでありました。
立ち止まらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。
(長田弘 「立ちどまる」より)
私自身走り続けている感が、今もあります。だからこそ、こころに響く詩なのだと思います。聞く事を粗末にしない生活は、立ち止まる生活であると思うのです。それは、今を粗末にしない生活であり、自分自身の生き方を問い続けていく生活でもあると思います。
気付かなかったことに気づかされていく生活です。
消費文化の枠組みに逃げ込んで、しかたない、しかたないと生きていく中で、私たちは、自分自身をまゆで包む蚕のように、同じ価値観でがんじがらめになっていないでしょうか。
一人ひとりが人生の主人公であり、世界を担っている尊い存在なのです。どこかのスパーマンがすべてをいいように解決してくれるのではありません。
聞思堂は立ち止まることのできる場所で、ありたいと思っています。宮城県栗駒山の杉の香りから東日本大震災の記憶をとどめ、私たちの生活のあり方そのものが、フクシマと直結していることをこころに刻んでいく場所。
それは、強迫的に追い込まれていく世界ではありません。
立ち止まるからこそ、自分自身の今の生活のあり方を振り返り、具体的に心を紡ぎ、絆をふかめ現地とつながることができる。「今、ここで何ができるのだろうと」考えことができる。
何もないからこそ、「ある」ことを問いつづけていくことができる。その意味を聴く世界が恵まれる.
そういう空間でありたいと思っています。そして、みなさんと一緒に、新しい価値観を共有できる場所でありたいと思います。
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安心して立ち止まり、安心して何もしない事ができるその根源は、「慈悲」です。だからこそ、お寺は、阿弥陀様の大慈悲を中心に成り立っているです。「すべてのお寺は平和のためにある」その根源をささえるものこそ「慈悲」なのです。慈悲の本質を支えるものが、存在論としての智慧であり、物事を関係性の上に立って、有機的に、ホリスティックに考えていく世界観なのです。
今夜もお付き合いいただきありがとうございました。
明日もまた考えていきたいと思います。
住職 合掌